芥川龍之介先生マンガ記

芥川龍之介先生関連のマンガを掲載しています。見て頂くことと自分の調べ物と両方を目的にしています。

2013-01-01から1年間の記事一覧

芥川家は苺ずき

明治43(1910)年 6月4日 山本喜誉司宛書簡 尺一啓呈昨日は丸一日歌舞伎座で下座の三味音楽のよび起こすやさしい情調を味はつてくらした 其為に君をたずねる事も出来なかった 留守には平塚が寄つてくれたさうだ家へかへつたら君のところの苺がとどいてゐた 難…

平塚の見舞

明治43年(1910)年 4月 山本喜誉司宛書簡 平塚の所から手紙が来て肋骨はぬかずにすンだとかいである 当分寝てゐるさうだ序があったら見舞に行ってやるといゝ あの黒犬さへ居なければ僕も行くンだけれどさぞ細くなつたらうと思つたら涙が二しづくこぼれた でも…

フキ伯母さんの肩揉み

外から帰って来た時も、家にいてちょっと手が空いた時などでも、必ず肩をもみました。 伯母が、「もういいよ」と声をかけても、主人は当り前のように念を入れてもんでおりました。 すると伯母は遠慮しながらも、嬉しそうな顔をみせておりました。肩もみは、…

フキ伯母さんのお土産

主人は普段、めったに私どもに土産など買って来たことはありませんでした。 それでも伯母には、本当によく気がついて土産を買ってかえりました。 銀座あたりからでも、ちょっとそこいらへ出た時でも、イシヴァネスの袖の中から、右に二つ、左に三つと、しか…

芥川龍之介の小学生の頃の夢

『追憶』より 二七 画 僕は幼稚園にはいっていたころには海軍将校になるつもりだった。が、小学校へはいったころからいつか画家志願に変っていた。僕の叔母は狩野勝玉という芳崖の乙弟子に縁づいていた。僕の叔父もまた裁判官だった雨谷に南画を学んでいた。…

芥川龍之介の幼稚園の頃の夢

追憶「答案」_02

『 追憶』より 三一 答案 確か小学校の二、三年生のころ、僕らの先生は僕らの机に耳の青い藁半紙わらばんしを配り、それへ「かわいと思うもの」と「美しいと思うもの」とを書けと言った。僕は象を「かわいと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にした…

追憶「答案」_01

奈良について_02

明治43年(1910)年 4月30日 関戸龍雄宛書簡 けれども京のやさしいのよりも更に深く自分を動したのは奈良の土の香であつた 京をロマンチックの都とすれば奈良はクラシックな都である 若草の下から千年の時の款の洩れて来るのは奈良だ 色のぼけた絵巻物が京なら…

奈良について_01

京都について_02

清水の舞台の工ハガキを見ておそ春の京を思つた 京べにを売る家ののれんのすゝびたのを思つた智恩院の篤張をうす曇のした日にあるいたのを思つた相国寺の三門を思つた祇園の舞妓を思つた 京はどうしてもロマンチックな都だ 京の宿の女中の返事が長くひくとこ…

京都について_01

漢字の表記_02

漢字の表記_01

佐佐木茂索宛“羊羹の礼状”

大正15(1926)年 11月29日 佐佐木茂索宛 羊羹をありがたう(羊羹と書くと何だか羊羹に毛の生へてゐる気がしてならぬ)お手紙もありがたう。君が余り気を使つてくれると、それが反射して苦しくなる事もある。(手紙ばかりならば助かるだけだが)何しろふと出…

森永のケーキを食べる芥川ファミリー

大正十五年末、主人と私と三男也寸志(大正十四年七月生れ)と三人で、私の実家のある鵠沼海岸の東屋旅館に滞在しました。 上の二人の子は田端の家へ残して来ました。五月に入り、也寸志の初節句のため、私は也寸志を連れて田端の家へ一足先に帰りました。…

芥川龍之介は柿が好物

大正12(1923)年 11月2日 下島勲宛 まいどいろいろ頂き有難く存じ候 昨夜のまるめろは酸くして小生の胃にはだめなれど柿は大好物故早速頂戴仕る可く候 即興 草の家に柿十一のゆたかさよ 大正13(1924)年 11月25日 西川英次郎宛 冠省 柿を沢山ありがたうは…

芥川龍之介の好きな食べ物

養父母と伯母が家事全般を扱っていましたので、直接主人の食事のことなどで私が煩わされたことなどありませんでした。 芥川家は皆質素で、一汁一菜式のもののようでした。 主人は鰤の照焼が大好物で、それさえあれば他には何もいらないというほどでした。 外…

芥川龍之介の嫌いな食べ物

風邪をひかないようにといって食べるのですが、主人は「とろろ」の連想が嫌いで、決して食べませんでした。 芥川文著『追想芥川龍之介』より

芥川龍之介の墓_02

主人は何を思ったか突然、お墓のことを話し出しました。 従来の墓石は、細長くて不安定で、台風でも来ると倒れそうなものが多いから、自分のはもっと低くして、どっしりしたもので、風などに吹き飛ばされないようにしたい、と巻紙にうすずみでその大きさを…

芥川龍之介の墓_01

新原得二

異母弟の得二君は、まつたく芥川に似てゐなかつた。日蓮宗に凝り出して、いくぶんファナチックになつてゐたやうだ。「あいつにはかなはん」と芥川はいつてゐた。恒藤恭著『旧友芥川龍之介』より

芥川家の宗旨は日蓮_02

以下、芥川文著『追想芥川龍之介』より抜粋 芥川家の宗旨は日蓮宗でした。私の実家も日蓮宗なので、宗教のことでは、抵抗もなにもありませんでした。 毎年、お会式の日は一家をあげて料理を作ります。 親戚のものも呼ばれてくるし、近所のごく親しい所へもお…

芥川家の宗旨は日蓮_01

お会式 お会式(おえしき)は、宗祖等の命日にあわせて行われる大法会(祭り)である。俳句においては下述の日蓮宗のお会式から秋の季語とされる。(ウィキペディアより) 日蓮宗のお会式 お会式(おえしき)は、日蓮門下の諸派、および日蓮正宗から分派した…

批評家・小宮豊隆と中村孤月

中村孤月は(なかむらこげつ)でいいと思うのですが、確認できなかったのでルビを振りませんでした。

芥川龍之介と横山大観

下島勲のルビ_02

「先生のお名はいさをしでいさをでないこと、今度はじめて知りました。」 との事。 芥川さんも間違えて覚えていたようです。 女子高生二人の掛け合いで漫画を進めてきましたが、僕自身が登場して読書日記みたいにした方がおもしろいのではないか、と思い始め…

下島勲のルビ_01

芥川龍之介と下島勲_03

芥川龍之介と下島勲_02

横山 大観 (よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日(明治元年9月18日) - 1958年(昭和33年)2月26日)は、日本の美術家、日本画家。常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ば…