芥川龍之介先生マンガ記

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宇野浩二著「苦の世界」あとがき

宇野浩二著「苦の世界」あとがきを書き出しました。
*底本にはルビがあっても、以下のものにはルビがない部分があります。尚、正確な写しではありませんし、誤字脱字があるかも知れません。ご参考程度に。
著作権は失効しています。)

あとがき

 この小説のはじめの「その一」のなかの一と二は、大正七年の七月ごろに、『二人の話』という題で、中学校の同級生の兄が出していた、「大学及(および)大学生」という雑誌に、発表した。
 その時分の私は、才能もないくせに、生意気な文学書生であったから、自分が小説を書きさえしたら、……というような自信を、ふだんから、持っていた。ところが、この『二つの話』を書くころは、その自信があまりなかった。それで、その時、「大学及大学生」の編集長をしていた、秋葉俊彦(あきばとしひこ)(注―詩人として文壇に出たが、明治の末年には小説も書いたけれど、大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者といわれた人)と、初夏のある夜、日比谷公園の中をあるきながら、私は、秋庭に、「ちかいうちに、君の雑誌に、小品を書くから、……」と、いった。それは、私は、腹の中では、小説を書くつもりであったのだが、小説というのがキマリがわるかったので、わざと、小品といったのであった。それは、その「大学及大学生」には、(雑誌の名はよくないけれど、)正宗白鳥小川未明秋田雨雀田村俊子、その他、そのころの、いれゆる中壁の流行作家のほかに、江口換、広津和郎谷崎精二葛西善蔵、その他の、すでに新進作家として文壇にみとめられていた人たちの作品が、出ていたからでもある。
 さて、この『二人の話』は、この「大学及大学生」の大正七年の八月号に、出たのであるが、これが、私の処女作ということになるのである。
 しかし、この小説には、生意気な私でも、四分ぐらいの自信はあったが、六分ぐらい自信がなかった。ところが、この小説が雑誌に出てから間もなく、ある晩、広津と谷崎精二と私が、神楽坂をおりて、電車通りを横ぎり、牛込見附の方へ、あるいて行ったとき、ふと、谷崎が、立ちどまって、それにつれて立ちどまった広津に、ささやくように、「……宇野の小説、……読んだ、……ちょっとおもしろいよ、」というのを、私は、小耳にはさんだ。そうして、それを聞くと、私は、もちろん、うれしかったが、癖の、生意気が出て、それは、あたりまえだ、とも、思った。
 しかし、やはり、この谷崎の言葉は、私の心を、はげました。それに、私は、この『二人の話』を書いてから、そのつづきのようなものを書きたくなっていたので、その翌年(つまり、大正八年)の五月ごろ、「その一」のなかの三と四と五を書いて、前の一と二とを一緒にして、『苦の世界』という題にして、これは、中学校の同窓が出していた、「解放」という雑誌に、出すことにした。
 この小説の雑誌に出るより前に、ある日、本郷の電車通りの裏の細い町をあるいていると、そのころその近くに住んでいた、久米正雄と、顔をあわすと、久米が、例の人なつこそうな笑顔をしなから、「……こんどの君の小説、期待してるよ、」と、いった。「ありがとう、」と、私は、いった。その久米が「こんどの君の小説」といったのは、「解放」に出るはずの『苦の世界』のことである、そうして、この時、久米が、ことさらに、「こんどの君の小説」といったのは、その時から三月ほど前に「文章世界」に出した私の『蔵の中』という小説が、「毀誉半々」といわれたが、むしろ、新進無名作家のくせに人を食ったところがあるという評判が多く、『毀』(そしる)の方が「半」以上であったので、私は、せっかく、いくらか問題になった小説を発表しながら、まだ『海の物とも山の物ともつかない』といわれていたからである。
 すると、この『苦の世界』が、「解放」の大正八年の九月号に、出ると、その翌月のある雑誌(たしか「新潮」)に、佐藤春夫が、文芸時評のなかで、前の月(つまり、九月)の雑誌に出た数おおい小説のなかで私の『苦の世界』と芥川龍之介の『妖婆』(前編)とだけを取りあげ、『苦の世界』をかなり褒め、『妖婆』をひどく貶(けな)した。これが大へん芥川の気もちをわるくした。そのころは芥川はすでに鬱然たる大家であった。その大家のたまたまの失敗作と新進作家のまぐれあたりのような幾らか増しな小説をならべて批評するなどという事は以ての外である、というのが芥川の言い分である。これは、いかにも芥川のいいそうな事ではあるが、一応もっともな理屈でもある。
 ところが、この佐藤の批評の出ている雑誌が出た一週間ほど後のある日、こんどは、大学校の同級生が、(そのころ、「中央公論」の編集者であった友人が、)私をたずねてきて、主幹の瀧田樗陰(たきたちょいん)が、『蔵の中』だけではまだ安心できなかったが、『苦の世界』を読んで安心した、というような事をいってから、「中央公論」の新年号に、できれば、あの小説(つまり、『苦の世界』)のつづきを、書いてほしい、と、いった。
 しかし、あのつづきは、すでに、「解放」に出すことになっているから、と、私は、ことわって、ほかの小説を、できたら、書こう、というくらいの約束をした。それで、私は、その年(つまり、大正八年)の十月ごろ、「その二」を書きあげて、『筋のない小説』という題で、それを、大正九年の一月号の「解放」に、発表した。
 ところが、この、いつとなく、連作の形になった小説は、「その一」、「その二」、と書きつづけてゆくと、すぐ、そのつづきが頭にうかび、その翌年(つまり、大正九年)の三月ごろ、私は、「その三」にあたる小説を、書きあげた。そうして、それを、『さ迷える魂』という題で、その年の四月号の「中央公論」に、発表した。
 すると、芥川が、この小説(つまり、「その三」)の三の『津川沼行き』のはじめの方を、たいへん褒めた、という事を、私は、人づてに、聞いた。
 さて、私は、『二人の話』を書いた時は、もとより、「その一」と「その二」を一緒にして、『苦の世界』という題で、「解放」 に発表した時も、「その三」、「その四」、「その五」、「その六」とまでなるとは、まったく予想もしなかった。
 ところが、さきに述べたように、「その二」、「その三」、と書きつづけてゆくと、すぐ、つぎからつぎと、そのつづきが頭に、うかんでくるので、「その四」は、『人の身の上』という題で、大正九年の七月号の「雄弁」に、発表し、「その五」は、『ある年の瀬』という題で、大正十年の一月号の「大観」に、発表し、「その六」は、『ことごとく作り話』という題で、大正十年の、たしか、五月ごろの「週刊朝日」に、発表した。
 以上、書く私が退屈したほどであるから、読む人は、(もし読む人が、あるなら、)途中で投げ出されたにらがいない。が、私が、こういうくだらない小説を、膏いた年月から、発表した雑誌の名前から、それが雑誌に出た年月まで、ばか丁寧に、書いたのは、(途中でやめるわけにもゆかなかったからでもあるが、実は、いやいや書いているうちに、)このようにダラダラと書いてしま
ったのである。そうして、書いてしまってから、まことに愚かしきことをした、愚の骨頂であった、と、後悔したが、『後悔さきにたたず』とは、まことに、昔の人は、うまい事をいったものである、と、感心した。
 おわりに、この拙文をよまれたら、大正年代(ことに大正の初めから中ごろまで)が、いかに、のんきなものであり、悠長なものであったかが、わかり、大正年代は、こういうくだらない小説を出す雑誌が幾つもあったほど、いわゆる文壇が、めでたく、のんびりしていたかが、わかるであろう、と、いう事を、つけくわえておく。

昭和二十六年十一月吉日
宇野浩二